網さだの歴史として一番わかりやすいものは変な話ですが仏壇にあります。
お店の建て替えなどで古いもので要らなくなったものは処分されてしまいましたが仏壇の中身は昔からのものがそのまま残されておりいつの時代のものかはわからない仏様がおかれていてその周りに八基の位牌があります。
一番古いものは第11代将軍徳川家斉の文化の時代のものでそれから天保、嘉永と続き明治、大正、昭和そして平成と繋がっていきます。決して江戸の時代から船宿をやっていたとは思いませんが・・・

江戸川沿いに暮らしていた明治時代以降の先祖は変わった商売、代書屋(昔の人は文字の読み書きができなかった為役所に出す書類、その他を代書する)をしており、先々代は英語の辞書を片手に少しハイカラな人だった様で今でも近所の古い人はうちのことを代書屋さんと呼んでいます。船宿は道楽で始めたみたいですね。

魚を捕る漁法は投網でそこで少し網さだの基本ベースである投網について解説いたします。
代々受け継いでいる網さだの投網は細川流といい、幕末から明治に生きた細川政吉・通称:細川の政(明治12年没)を流祖として細川流投網はすくい取り、あるいは本振りという体をダイナミックに動かし、船の上から網を打つ方法です。

かつてこの江戸川では網船(あみぶね)が盛んでした。舵子(かじこ)と網打ちの二人三脚でとった魚をその場で刺身やてんぷらにして、お客様をおもてなしする江戸情緒あふれる船遊びでした。その流れより網船が屋形船と移行し現在に至っています。

網さだの屋形船は船首のところに網が打てるように少し広めのスペースがあるのが特徴です。
さてさてここで話は網さだの屋形船ヒストリーとなっていきます。

現在の網さだの礎となったのは先々代でそれを先代の親父が形作っていきました。
昔は比較的裕福な人たちが船を貸し切り船頭に網を打たせ魚を取りお酒を飲みながら食するという優雅な時間を過ごしていきました。

[投網の写真]

冬になると今度は鴨撃ち船という船遊びが人気で船の上から散弾銃で鴨を撃っていたそうで、かつて江戸川の葛西、浦安、行徳まわりはどこもそこも大葦原で、季節になると想像を絶するほどの鴨を中心とした野鳥の杜でした。(行徳の御猟場は有名です)そして鴨場が設定されており、かような商売が許可されていたのです。

親父の話によるとリヤカーにいっぱいの鴨を乗せ帰ってきたこともあったそうで、余談としてその上に散弾銃を乗せて帰ってきたらどこかで落としたらしく大騒ぎになったこともあったそうです。
今では想像もできないですよね〜

[鴨撃ちの写真]

なんやかんだで船宿として商売を続けてきて1980年代頃より網船から屋形船と変わり最初の屋形船は
網船を改造したもので20人ぐらいしか乗れない小さなものでした。

[屋形の写真]

ただ個人的にはこれぞ「The・屋形船」と思っています。